あざみ野こどもぎゃらりー2011 総合展示 『たいよう+あしあと』
2011年 8月18日~28日
横浜市民ギャラリーあざみ野 (神奈川)
子供も大人も楽しめる展覧会として、毎年行われている『あざみ野こどもぎゃらりー』シリーズで展示が行われ、子供向けワークショップ 『たいよう+ぼく』『あしあと+わたし』の2作行い、展示会場にはそれぞれのワークショップで子供たちと一緒に制作した作品を展示した。
会場は盛夏の展示にふさわしい、さわやかな青と白の美しいコントラストで統一されており、夏の暑い日ざしや、気持ちのいい水の流れ、青い空などが思い浮かぶ。
子供たちと一緒にワークショップで制作したものを、ただ羅列するのではなく、一つのインスタレーションとして完成された展示をしたいと考えた木村の新作『たいよう+あしあと』である。
実は、この作品が産み出されたきっかけになったのは、2011年3月11日に起きた東日本大震災と福島第一原発の事故だった。
震災後、様々な側面からこの震災や事故の原因を考える人々の話を見聞きし、実際に福島へ出向いて現状を感じるなどした木村が、現代美術家としてこの大きな出来事にどう向き合ったらよいのかを自問し続けた中で企画した作品だった。
一見すると青と白のさわやかな展示に込められた木村の想いは、一歩作品のコンセプトへと足を踏み込めば、意外にも、私達人類が、少しでも長く地球と共に暮らせるように・・・と考えた、切実な未来への願いが込められている。
このワークショップと展示は、『地球と遊ぶ』という大きなコンセプトと共に『人』という新しいテーマを加えた新作である。
展示会場には、青い空に浮かぶ白い雲をイメージしたタペストリーが飾られ、床には川のような青い線が引かれている。どちらも子供たちと一緒にワークショップで制作したものだ。
木村はこのワークショップと展示を通して、私達「人」のあり方についての新しい視点を表現している。
『地球と遊ぶ』を大きなコンセプトにこれまで数々の作品を制作されてきたが、東日本大震災での大惨事を目の当たりにし、木村は人がこれからどう地球と向き合うか?という大きな課題を得たと考え、私達がこの地球の一部として存在していることを、この作品の中で強いメッセージを送っている。
空に浮かぶ白い雲は、よく見ると子供たち自身の形である。
これは、子供たちが雲をイメージしてポーズした姿をそのまま日光写真にしたものである。無重力の中をフワフワと浮かぶように、子供たちが空に浮かぶ雲になっている。
普段は紫外線の害が心配され、あまり陽に当たらないように気をつけなくてはならなくなってしまった今日。木村はあえて日光とにらめっこするワークショップを行った。
もちろん直射日光に当たる時間は数分であるが、あまり直射日光の下でじっとすることがない子供たちは、焼き付けるような陽の光の強さを全身で感じてもらうことができたのではないだろうか?
日光写真で白く浮かび上がった子供たちの姿を見ていると、子供の頃、刻々と形を変える雲の形が想像次第で色々なものに見えて面白かった記憶を呼び覚ます。
雲の形に私達の姿を重ね合わせ、空を自由に飛びまわっているような開放感が会場全体に溢れていた。
一方会場の下を川にように流れる青い線は、5チームに分かれた子供たちが、自分達で飾りつけた三輪車に乗ってレースをした軌跡だ。
三輪車で絵具を牽引しながら、子供たちは会場に置かれた障害物をよけながらレースをする。
直線は勢いよく、カーブはゆっくりに描かれた青い線の勢い。
レースを終えて一息ついたところで、子供たちと一緒に青い線を観察してみる。すると、子供たちは自分達がつけた跡が川のように見えることに気づく。無意識の行為が川の流れと同じような形をしていることに、子供たちはちょっと驚いたようだった。
木村は、この作品の中で『地球とつながる視点』を得られるヒントを提案している。
地球とつながる視点を手に入れるのそれほど難しいことではなく、身の回りに隠れている大小さまざまな形のパターンを探すことだという。
例えば、私達の体は細胞というパターンの集合で成り立っているが、このパターンの形状は蜂の巣や意思権の泡などにも見ることができるし、もっと大きなものには大地の割れ目や氷河に浮かぶ巨大な氷にも見ることができる。
また、パターンは人の行動や思考、習慣などにも同じように見ることができるのだ。
このように、気をつけて身の回りにパターンを探してみると、顕微鏡や肉眼で見ることができる世界や、現象として現われるエネルギーの形、人の思想や行動という目には見えない政界にさえも、共通したパターンを見つけることができる。
そうした時、私達『人』が宇宙に浮かんでいる地球という星の、ごく一部として存在していることに気づかされると考えているのである。
もし、そのことに気づくことができたなら、私達『人』も地球の現象の一部なのだという謙虚な視点を得ることができ、それによってそれまでとは違う行動=新しい現象を起こすことができるのではないかという、木村の願いが込められている。